追求与向往

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その想念や情念

母の四十九日の法要のため、1週間ほど九州に帰ってきた。
この秋は始めと終わりに2度、瀬戸内海をフェリーで行き来したことになる。
その間にぼくは大阪で生活し、ふたたび九州に戻ってきたわけだけど、いつしか台風の季節も去って、木々の葉っぱも散り急いでいるようで、そこはもうまっ白な霜の降りる季節に変わっていた。
49日という時をかけて、死者はあの世に向かうという。
それは仏教の宗教的幻想であるが、49日という現実的な日数をともなう幻想の重みに浸ってみると、残されて生きている者の心と体は、そのぶん軽くなったような気がする。死者の旅は、生者の旅でもあったのだ。

ずいぶん久しぶりに、近くの磨崖仏を見に出かけた。
石の顔に歳月の影はなかった。古い記憶のなかの顔がそのままにあった。
千年もの昔にだれが、こんな山奥の崖を削って巨大な石仏を彫ったものか、その想念や情念もいまは静かに石の像の中に閉じ込められて、晩秋の陽を全身に浴びておおらかな姿を晒している。
時とともに変わりゆくものを吸収し、なお変わらないものがそこにあった。
つねに変わらずにあるものは、いつしか変わってしまったものを告げてくるのだった。静寂のなかから生まれてくる遠い音があり、懐かしい声があった。ふと過ぎる子どもたちの影も、いまは吹きすぎていく風と変わらない。

仏像の足元の、崖に刻まれた石段をのぼる。
岩ごけと土の匂いが強くなった。見上げると巨大な石の顔がある。
あるく者よ、うごく者よ、過去から未来への階段をのぼろうとする者よ、と野太い声が降ってきそうだった。だがその声は厳しいものではない。長い年月かけて雨風に洗われた柔らかさがあった。
見つめつづける石の視線の先には、いまは花はないが紫陽花の谷を挟んで、小さな本堂と山門がある。

ガラス戸を開けて本堂に入る。
お寺というよりも、山奥の民家を訪ねるような新鮮な気後れがした。
せまい拝殿の片隅には、アップライトのピアノが置かれていた。この特異な雰囲気も、仏よりも人の日常生活の気配のほうが濃い感じがした。
ピアノの音を奉納してください、という案内がしてあったので、蓋を上げて適当に鍵盤を叩いてみた。
ぽつんぽつんと堂内に散ったピアノの音は、音楽というほどの響きにはならなかった。むしろ、初めてきく知らない言葉のようだった。

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